彼は「着きましたよ、クーリーパークです」と言いながら、広い駐車場に車を止めた。バラスを敷き詰めただけのもので、中央に車が1台ひっそりと駐車している。道路幅5m位の並木道が奥に延びている。幹が細く葉の少ない高い木が、一直線に並んでいる。夕方5時前、暗くなり始めた。僕と彼は並んで砂利の敷き詰められた並木の下をゆっくりと歩いた。「ジャリ、ジャリ」と二人の足音以外はなにも聞こえない。鳥の声もせず、人っ子一人いない。人気のない夕方の公園は寂しい。奥に向うと並木道が終わり目の前が明るくなった。前方に白い石壁の新しい建物がある。館は高い鉄製のフェンスに囲まれている。入り口の門は閉ざされ、内は静まり返っている。彼はその門前に立った。そして、鉄の扉に手を当てながら「閉館中だろうか。夏なら開いているんだが・・・」と、小声でつぶやきながら中を覗き込んみ軽く門を押してみた。すると、扉は「キリキリ、キリキリ」と弱い音を立てて開いた。彼は「入っておいで」とニコッと笑って手招きした。あの岬の入り口の扉と同じである。
門からジャリ道が会館入り口のテラスまで続いている。大きな木製のドア−が、開いたままである。彼の後について中に入った。
フロア−や階段など内部は木材が多く使われている。館内は「ログハウス」のようだ。外壁の石壁とは対照的な温もりを感じる。正面に木製のカウンタ−式の受付がある。受付の女性が私達に会釈した。奧に一人の男性職員がいる。いずれも若い人達だ。彼女は椅子から立ち上がり「もうすぐ閉館なんです。展示室には入ることが出来ません。公園内は自由ですが・・・・」と言った。細身の質素な感じの若い女性で化粧はしていない。職業的なものなのか、穏やかで「気品」がある。彼女は「これらのパンフレットは、自由にお持ち帰りください」とカウンタ−の上を示した。そこには、数種類の有料書籍と無料のパンフが並べられている。書籍は、レデ−・グレゴリ−やイェイツの作品がほとんどである。チラシは、記念講演などの予定が印刷されている。私達は彼女に礼を言って建物を後にした。「もうすぐ、この公園は来年の春まで閉ざされるんだよ。春になると、再び多くの人達がここを訪れるんだ」と僕を見た。彼は森に続く小径に入って行った。「それじゃ、会館は半年間は閉まっているんですね。でも、そのことはグレゴリー達にとって、仲間だけの楽しい一時かもしれませんね」、「そうだな、彼女は散歩をしながらイェイツ達と政治や文学の話に花を咲かせているだろう」とニコッリと笑った。
「さあ−行こう、君に見せたい物があるんだ」と言って、少し早足で歩き始めた。目の前に広い空き地が現れた。「ここに、グレゴリ−の家が建っていたんだ。残念だが破壊主義者によって壊されたんだ」と、ちょっぴり彼の横顔が寂しそうだ。「このような空き地だけが残っている姿は、本当に哀愁を感じさせますね」と僕、「残しておきたかったんだがね・・・」と彼、「建物がなくても、彼女たちは、今でも多くのアイルランド人に“愛國”という遺産を、残し続けているんですよね」と言ったら、彼は大きくため息をして、「さあ−、運動を兼ね早足で森を一周りするよ」と元気良く歩き始めた。しばらく歩くと森が切れて目の前が明るくなった。道の左側は崖で一段低い谷間になっていて、雑草が茂っている。底部には、幅200M程の河原が左右に延々と続いている。さらにその中央部が「谷底」のようで、幅20〜30mの川が流れている。対岸も雑草の大湿地帯になっている、暗くなり始めた対岸の谷間の上に、日没の綺麗な夕日が見えている。「真ん中に、小さい川が流れているようですね」と言うと、「今は川だけれど、冬にかけて大河に、さらに湖になるんだ」と説明してくれた。
「この広大な川原を湖に変える水量は膨大なものだろう」と、信じられない顔をしていると、「冬の時期には、この地方は大雨が降り続くんだ。広い谷間は水に浸かって湖になるんだ」と彼は付け加えた。「低くて黒い雲が、恐ろしい早さで頭上を飛んでいく、そんな日がどれだけ続くのか」と想像した。彼は、「さあ、行くか」と目で合図した。赤い夕日が対岸の丘の頂上に日没は近い。Y字型の三叉路を左側の森に入った。薄暗い前方の道路に、黒くて長い物が見えた。「あっ、蛇だ」と叫んでしまった。細長い物体で誰が見てもヘビだ。しかし、彼は「ヘビではないよ」と言い切った。「どうして、断言できるんですか」と聞くと、「昔、この国の王が蛇を撲滅したので一匹もいないよ」と彼、近寄って見れば枯れ落ちた小枝であった。森が終わり目の前が明るくなった。彼は「あなたは、どのように英語を学んだんですか。シンプルでとても理解し易いんだが」と僕の顔を見た。「日本では、中学校から高校迄の6年間、英語の授業を受けるんです。でも、実用英語は時間を取らないんです。その為に学生は皆会話が苦手なんです。大学でも文学や言語学が主体なんです。私も、しばらく英会話学校に行きました」と言うと、彼は僕の説明に理解できない顔をした。「あなたの英語こそ、本当に理解しやすい。特に、発音とアクセントは、私には合っている。英国英語よりずっと綺麗だ」と付け加えると、彼はニヤッとうれしそうに笑った。
笑っている彼に、「そう、私は短波ラジオでBBCやVOAをよく聞きました。‘タタタン、タタタン、タタタタタタタタン’とBBCは、このリズムで始まるんですよね」と言うと、苦笑いしながら「そう、僕もBBCはよく聞いたね。でもご存じのように、この国はイギリスに対しては、好感は持っていないんだ。古きはクロムウエルの宗教弾圧から、ジャガイモ戦争に至るまでね」と静かに言った。「日本は宗教対立で国が二分する悲劇の経験はないんです」と言うと、「特に1904年のジャガイモ病の飢餓はひどく、イギリス政府がアイルランドを見放した。そのために、多くのアイルランド人は、祖国を離れざるをえなくなったんだ」と彼、少し赤みを帯びた横顔に寂しさを感じる。彼は「行こう、最後のコーナーだよ」と言った。道路際の広場に、一本の幹の大きな木が立っている。彼は、その木の前で立ち止まった、古い大木のようだ。その幹の周囲を、立ち入り禁止の簡素なフェンスがしてある。彼は「ほら、その木の幹を見てみなさい。文字が刻まれているのが見えるだろう」と指差した。樹皮に、大小さまざまなイニシャルが彫られている。芸術的な字もあれば、単純なものもある。20名ぐらいの名前が、2文字や3文字で彫られている。彼はフェンスに左手をかけながら、「文字はグレゴリ−やイエイッツ、バ−ナ−ド・ショウ達が、自らが彫ったサインだよ。ほら、中程の右側のAGがグレゴリ−だよ」と説明してくれた。よく見ると、消えかかったAとGが、かろうじて読みとれた。すでに、ほとんどの文字が消えかけている。その為に、小さい説明用のボ−ドが設置さられている。
消えかけたAGの文字を見ながら、「Raising・Of・The・Moon」にグレゴリーのアイルランドへの愛国心を思い出していた。広場の小径を通りガレージに向かった。奥にすでに閉館した会館が見えている。駐車場の周りは暗闇に近い。止まっていた1台の車は既になかった。彼の車だけが見えている。「さあ−、帰る途中にパブ‘牡蛎’に行こう。今は牡蛎の季節ではないが」と助手席のドア−を開けてくれた。車は元来た広い道に出た。「30分あれば着くよ」と言った。車が動きだすと、「今日は本当にありがとうございました。これほど程有意義な日をゴ−ルウエイで過ごせるなんて予期していませんでした」と言うと、「それは良かった。又、会える機会が有ればいいね・・・」とニッコリ笑う彼の笑顔は温かい。その笑顔へのお返しに、「お互いに命があって、そして、お互いに会う意思があれば、又お会いしましょう」と、神妙に言うと「どこかで聞いた文句だな。そうだ、シェ−クスピアだ。ぼくも、彼は大好きなんだよ」と笑った。車は北の方に走り始めた。助手席(ホンダCIVIC、右ハンドルの車)の窓から離れていくクーリーパークが見える。丘の上の稜線だけが微かに明るい。すっかり日が沈んでしまった。彼はヘッドライトを点灯した。
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